水田天満宮からおよそ100メートル西、「水田中町」交差点の角に小さな茅ぶきの家があります。木目もあらわな板壁や柱、三畳と四畳半の二間しかない粗末な家ですが、これが真木和泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)が約10年間生活した″山梔窩(さんしか)″または″くちなしのや″と呼ばれる住居です。
真木和泉守は久留米の藩士で、先祖から代々水天宮の神宮をつとめた家柄でした。学問にも武道にもすぐれていました。ところが藩政改革の意見を申し出て藩の反感をかい、水田天満宮の神職で和泉守の実弟にあたる大鳥居理兵衛に預けられることになったのです。時は1852年、黒船来航により日本が激動の時代を迎えようとしていた頃です。
水田に幽閉された真木和泉守は、日頃から国を憂い、尊王攘夷論をとなえていました。自らの住居を「山梔窩」と名づけここで、この地方の青年達50人ほどを集めて思想や武術といった門弟教育を行いました。それはちょうど吉田松陰の松下村塾にひとしい役割をしたといえます。
やがて和泉守は、1863年に意を決して脱藩。翌年、長州藩とともに幕府勢力と激突します。江戸幕府が開府して以来、初めて京を舞台にした大きな内戦となります。これが蛤御門の戦い(禁門の変)です。真木和泉守はこれに敗れて、京都天王山において自ら命を絶ちました。52年の生涯でした。
和泉守の死後まもなく、薩長同盟の成立で倒幕の動きが加速し、1867年には時の将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返還しました。いわゆる大政奉還です。真木和泉守の想いはここに結実しました。すなわち、この山梔窩こそが明治維新をはぐくんだ由緒ある家といえるでしょう。その後、山梔窩は福岡県が指定する文化財となりました。
このライトアップでは、和泉守の辞世の句「大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂」をパネルに紹介し、50名の同志の名前を紙灯篭に記しました。